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diary
田村亮のちょっと嬉しかったこと
田村亮からひとこと

第35回 入院生活を振替って−1 (2002年2月1日)

 私、退院して早、三週間になりました。
 今ではもう、松葉杖のお世話にもならず、用心深く右足を庇いつつ、静かに両足で歩けるまでになりました事を先ず、ご報告致します。

 とは言うものの、どこもかしこも健康体の私にとりましては、イライラの多い日々を送ってます。
 そこで、暇潰し、と云ってはなんですが、入院生活を振り返って、フト、心に残った事を思い出しながら記してみます。
 皆様も、暇潰しに目を通して下さい。お忙しい方は、すぐにページを閉じて下さいヨ。あくまでも暇な方だけ   


 舞台直前の怪我。入院。手術。舞台の降板。
 十二月二十二日、アキレス腱断裂の為、決してあってはならない経験を余儀なく強いられました。あと数日で、2002年の幕開けだというのに・・・。
 さて、いよいよ入院生活の突入です。病院は新宿の東京医大病院。
 入院直後は、友人が退屈しているだろうと持って来てくれた何冊かの本を読んでも、目はただ文字をなぞっているだけ。内容も何もかも上の空でページをめっくている。様々な事が、様々な人の顔が、脳裏をよぎり、二、三日は何事にも集中する事が出来ませんでした。
 「腑抜けの穀」というのは、この事を言うんだ・・・!非常につまらない事に得心して納得している。


 アキレス腱を断裂して、三日目に手術。
 教授自ら執刀して下さるとの事。教授がアキレス腱の手術という事で病院内でも評判になりました。
 知識のない私は、一時間前後の手術だと思っていたのが、何と、手術室に入ったのが一時。終了して退室したのが三時三十分。助手の先生の話だと、三十針近く細かく細かく縫って下さったとの事。切開の跡を見せてもらったら、見事にきれいに縫い合わされておりました。術後五週目の今ではもう傷口はうっすらとしか見えなくなりました。


 二十六日、テレビのワイドショー、新聞各紙に<アキレス腱断裂>、<一月公演・降板>等々一斉に報道された。
 代役は、五代高之君に決定。初日まで、まだ十日間。稽古日数は充分にある。初日直前の事故だったらどうなった事だろう、と思うと胸が絞めつけられる思いがした。関係者には最低限のご迷惑で、少しはホッとしました。
 それより何よりも《田村亮の楊乾竜(ヨウ・ケンリュウ)》をお客さんの前でお見せ出来ない事が残念無念でならなかった。
 あの一瞬が無ければ…と、ギブスの嵌められた右足についつい目がいってしまうこと、度々。
 二十六日、報道が流されてから、友人、知人から沢山のお見舞いの花やメッセージが次々と病院に送られて来ました。こんな人からも、あんな人からも、思いも掛けないこの人からも・・・。あまりの数に私自身戸惑いを感じられずにはいられませんでした。
 一つ一つ、送り主の名前を見ては心の中で「ありがとう・・・、ありがとう・・・、ありがとう・・・」無言の連発でした。
 本当にありがとうございました。

新聞


 二十八日。いよいよ「不死鳥よ、波涛を越えて」の舞台稽古。
 病室に一人でいると、ついついボーッと、舞台の上の自分の立ち姿を思い浮かべてしまう。この日も、朝食を終え、一人ボーッと物思いに耽っていると、舞台にセットされた大階段を降りてくる〈楊乾竜〉に扮した自分の姿が見えてくる。完璧に覚えたセリフが自然にブツブツと口から出てくる。
 すると突然「田村さん、松平様がご面会です。」と看護婦さんの声。松平健さんが、心配気な顔で近づいて来てくれました。
 相変わらず口数の少ない松平健さんでした。
 「痛くは無いんですか   。」
 「四月には間に合うんでしょ?」(四月は「暴れん坊将軍」の撮影開始)
 「ゆっくり休養をとって下さいヨ・・・」
と、三言、四言、言葉を交わして帰って行かれました。
 今日は十時から舞台稽古のはず。俳優にとっては一番せわしない時。楽屋入りの前に時間を裂いてお見舞いに来てくれました。本当に申し訳ない。彼が去った後、僕は一人口の中で呟いていました。
 「舞台の成功を心からお祈り致します。」そして「再演の際は、恐れずにもう一度、〈楊乾竜〉にチャレンジしたい気持ちで一杯です。」


 突然、十二月三十一日から二泊三日の外泊許可が出ました。数日前に、看護婦さんが「元日はお雑煮にしますか?それとも普通の朝食の方が良いですか?」と、各病室に希望を聞きに来られたので、当然、病院で新年を迎えるものとばかり思っていた私は、思いがけない喜びでした。
 我が家に戻れば、門松から、庭の掃除、床の間のお飾りから生け花まで、すっかり正月化粧が施されており、今回の帰宅は今までにない感激。

 そして、「明けましてオメデトウ」。
 自宅での正月は結構でしたが、身動きの自由が利かない私にとっての一日は、非常に長く感じられた。殆ど一日中テレビの前で右足を伸ばし、リモコンを手にして<テレビっ子>と化してしまいました。せっかく家に帰って来たのだから、これもしておきたい、あれもしておきたい・・・、家の中の目に入る物が自分をイライラさせるばかりです。血圧の高い人には、一時帰宅は禁物ですネ。

 元旦の二日目は、何となく正月気分が味わえた様な気がしました。
 午前中は恒例の箱根駅伝の中継。テレビの前でジッと見入っていますと、期せずして、第二区間の法政大学の走者が突然、足の不調で片足を引きずり始めた。解説者の話によると、練習中、アキレス腱を痛めて一時出場が危ぶまれたとの事。
 走者の走り方を見ていると、とても次の中継地点まで走り切れそうもない。彼は顔をクシャクシャにして歯を喰いしばり手で足を叩きながらフラフラと走っている。もう限界と判断した法大の監督は車から飛び降り、抱きおさえる様にして彼の続走を止めた。号泣し崩れ倒れる選手。しっかりと抱きしめて、言葉をかけてあげる監督。
 彼にとっては一生つらい思い出として残るかも知れないが、私に云わせれば<素晴らしい青春>の一言につきます。その光景をテレビの前で一人見入っていた私の目は、正直、熱い涙が溢れてました。
 駅伝中継が終わって、すぐ初詣に出かけました。車で十分足らずの氏神、氷川神社。ここへは毎年欠かさずお参りに来ていますが、今年は松葉杖が不安だったので長い列には並ばず本殿の近くの石段の所までヨチヨチと進んで拝んで来ました。正月の神社というのは私は大好きです。参詣者の顔を見ても誰ひとりとして暗い顔の人を見かけません。着物姿も綺麗だし元気な子供達も最高だ。・・・おとし玉を貰ったせいかな・・・?。

 夕方、友人夫婦が遊びに来てくれて皆でスキ焼きをつっついた。病室では絶対に食べる事の出来ないメニュー。病院生活が長くなってくると、こんな事で大感激するのです。

 夜九時、帰院。玄関から車椅子で私の病室入ると、即、ベットの上にゴロンと横になる。なぜかホッとしました。外泊中は万が一、転んで再断裂してはいけないと四六時中気が張っていて神経が疲れ果てていたのでしょう。病院に無事送り届けた女房にとっても同じ事。私が病院に戻ってくれてホッとしているに違いない。ご苦労さんでした。


 ところで、まだこのページを読んでいらしゃるんですか?そんなに暇潰しに困っていらしゃるんですか?この後もあまり面白くありませんが、ひとまずページを閉じて、続きは次の暇潰しにお読みになられたらいかがでしょうか。

そんなこと言わずに続きを読ませて・・・

第34回 笑い話しみたいな話 (2002年1月18日)
第33回 退院して久しぶりにゴン太と対面 (2002年1月15日)
第32回 アキレス腱手術 (2001年12月28日)
第31回 僕のスポーツにまつわる話、あれこれ・・・ (2001年8月30日)
第30回 初めての木曽路 (2001年7月16日)
第29回 ハワイの友人 (2001年6月11日)
第28回 ハワイへ行ってまいりました (2001年5月23日)
第27回 新珠三千代さんを偲んで・・・・・ (2001年4月2日)
第26回 「花のれん」 (2001年3月5日)
第25回 一枚のこんな写真が・・・三浦雄一郎さんと・・・ (2001年1月15日)
第24回 21世紀の初滑り (2001年1月10日)

過去(〜2000年12月)の日記

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